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関ケ原特集その1~5分でわかるざっくり関ケ原の戦い~

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どうも、島左近です。

昨日が第422回関ケ原の戦いであることを忘れてすっかり寝坊しておりました。
ということで、関ケ原特集です。
私が戦国時代の面白さに目覚めたのは、関ケ原のおかげなのです。
今回は関ケ原の魅力をお伝えします。
まずは、関ケ原の戦いについておさらいしましょう。

関ケ原の戦いとは…

「関ケ原の戦いって何?」
「中学校の社会でちょっと出てくる程度で名前くらいしか知らないよ。」
「なぜ関ケ原の戦いは起こったの?」
そんな方向けに、よくある5分でわかる関ケ原の戦い解説をしましょう。
ちゃんとしたお話はググってみましょう。たくさん出てくるはず。
(以下の話は諸説ある。)


話はさかのぼること、関ケ原の戦いの2年ほど前である1598年。
あの大阪城を建てた偉い御仁・豊臣秀吉が亡くなった。
秀吉には秀頼というかわゆい息子がいた。
秀吉は死の間際に、前田利家と徳川家康という長老2人に幼い息子の将来を託したのだ。
前田利家は、秀吉と昔からの大親友。
徳川家康は、武田信玄や織田信長といった強者にビビりながらなんとか生き抜き、のちに江戸幕府をひらくお方。
家康は秀吉が死んで、秀頼が幼く、さらに利家も病気であったため、色々な決まり事をシレーっと破り始める。

「このままでは家康が政権を取ってしまう」と感じた豊臣政権の超エリート官僚である我が殿石田三成。
我が殿は義理堅いお方であるが故、秀頼公をお守りし、豊臣政権を維持することだけを考えていた。
殿は同じ仕事仲間たちとともに利家を担ぎ、前田VS徳川の政治抗争を仕掛ける。
一時は戦乱になりかけたもののなんとか回避。
そんなこんなしているうちに利家は死去。これにより家康がいよいよ権力を持ち始めたのだった。

規律を守り、真面目な殿は、秀吉が以前朝鮮攻めを行った際に戦後手続きを担当。
戦後手続きに不満をもった体育会系の加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの武将たちは、偉そうにみえる殿を秀吉の金魚の糞呼ばわりする。
彼ら体育会系の武将たちは、秀吉の死後は家康に近づいていくこととなり、三成VS家康&体育会系軍団の構図が出来上がる。

ある日、三成憎しの体育会系軍団は三成を暗殺しようとする。が、失敗。
しかしながら、体育会系の三成降ろしはすさまじいものもあり、家康は殿が政権から離れることを勧める。
邪魔者がいなくなった家康は、続いて力のある利家の息子が家を継いだ前田家をつぶしにかかろうとする。
家康暗殺計画をでっちあげて、前田家に覚えのない濡れ衣を着させたのであった。
焦った前田家は人質を江戸に送りなんとか一件落着。これにより前田家は家康に反抗することはできなくなった。
いよいよ家康は大阪に入城し政務を取り仕切ることになった。

これに不満を覚えたのは、会津の武将で豊臣政権の3トップ上杉景勝である。
景勝は会津に戻り合戦の準備を開始。
家康は「大坂に来い」と要求。景勝は「いやだ」と返事をする。
家康は「じゃあお前それは豊臣家に対する謀反行為だぞ」っていちゃもんをつける。
そこで景勝の家来で殿とも仲の良かった直江兼続は家康を挑発する直江状を送り付けた。
わりとまじで怒った家康は、あくまで豊臣家に対する謀反であると称して、豊臣家の体育会系軍団を引き連れ会津討伐に向かう。

会津に向かう途中で、西の権力者毛利輝元が大坂城に入城。
殿も行動を開始。いわゆる西軍が出来上がり、関西各地で戦が始まる。
家康は待ってましたとばかりに方向を変え西に向かう準備をする。
三成憎しに燃える体育会系軍団は、家康には扱いやすかったのだ。

家康は東海道を、息子の秀忠(江戸幕府二代将軍)は中山道から大坂に向かった。
家康に自分たちのやる気を見せるために、豊臣家の体育会系軍団は岐阜で城攻めを開始する。
家康はいよいよ江戸を発ち、大坂へ向かう。
そして場面はいよいよ関ケ原へと向かう。

1600年9月15日(旧暦)、なんやかんやで関ケ原に集まった東軍と西軍。
しかしなんと、東軍は主力部隊秀忠軍が信州上田で足止めをくらっていた。
そう、あの真田昌幸・信繁(幸村)父子の妨害である。
結局秀忠軍は関ケ原の戦いに遅刻し、父家康にこっぴどく怒られるのであった。

早朝、西軍副大将の宇喜多軍と東軍体育会系の福島軍の鉄砲戦が関ケ原の戦いの開幕戦である。
しかしながら、戦いはすでに決まっていたのだった。
なぜならば、ずる賢い家康は、すでに内通の取り交わしをしていたからである。
まずは、毛利家の一員である吉川広家が現場を仕切る毛利軍である。
彼は、合戦のさなかに「弁当を食べるから」と行って山に閉じこもっていた。
そして、勝敗のカギを握った小早川秀秋である。
家康からの催促鉄砲に応じ、裏切りを開始し山を駆け下り大谷吉継率いる部隊を壊滅させることに成功。
これによって合戦の流れは家康のものとなり、西軍は破れ家康が天下を取ることになったのであった。


かなり端折ったけどこんな感じ。
関ケ原の戦いを題材にした小説は、司馬遼太郎の関ケ原(上・中・下)がおすすめ。
拙者はこの小説で、歴史に目覚めたのである。
この小説では、拙者(島左近)がよく登場するので、拙者が島左近を名乗る理由はこの小説の中にあるのだ。


あとは、こんな本もある。
みんなが知っている関ケ原の戦いは後世の創作であり、戦いはいたってシンプルなものであったという説を込めた本だ。
これはこれで新しい見解があり面白い。


結局、歴史は勝者の歴史であって、敗者は悪者にされてしまうのが歴史である。
なにが真実かはわからないが、歴史にはロマンがあって面白い。
関ケ原の戦いには、そのロマンがたくさん詰まっているのである。

関ケ原特集その2に続く。

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