旅の記録岐阜県中部地方

関ケ原特集その2~陣を訪ねる~

旅の記録

どうも、島左近です。

関ケ原特集その1~5分でわかるざっくり関ケ原の戦い~の記事はこちらです。
今回は、関ケ原の戦いにおける西軍の主な陣跡を訪ねることに。
ご紹介する内容は、2016年3月22日訪問時のものになります。
(現在は変わっているかもしれないので、公式ホームページなどでご確認ください。)

魅力満載!関ケ原!

★関ヶ原駅前観光交流館(レンタサイクル)
★関ケ原古戦場(決戦地)
★笹尾山 馬防柵(戦国感を味わえる)
★石田三成陣地(我が殿の陣地)
★大谷吉継陣跡(友人想いの大事な武将)
★大谷吉継の墓
★平塚為広の碑(裏切りの連続に最後まで戦い続けた武将)
★宇喜多秀家陣跡(西軍副大将)
★関ヶ原古戦場開戦地(宇喜多隊VS福島隊の鉄砲戦)
←その2はここまで
★レストラン梺(釜めしヒレかつ膳をいただきました)
★関ケ原ウォーランド(最強の珍スポット)
★玉観光 関ケ原鍾乳洞(関ケ原の癒し空間)

関ケ原の戦いへは馬を借りて

JR関ケ原駅前からスタート。
米原駅(滋賀県)と大垣駅(岐阜県)との間にある駅です。
駅前はさっそく古戦場推しです。

線路沿いのフェンスには家紋パラダイス。
家紋好きにはたまらない。

我が殿(石田三成)とその盟友大谷吉継殿。
殿の挙兵を止めに来たが、病気の身ながら結果的に西軍で華やかに散って行かれた御仁。
金吾殿(小早川秀秋)の猛撃に最後まで采配を振るった立派なお方である。

広い関ケ原を巡るには、駅前の観光案内所で馬(レンタサイクル)を借りる。
詳しくはこちら↓
関ケ原駅前観光交流館 | 関ケ原観光ガイド
これは、馬(自転車)が飼いならされている倉庫である。
かっちょええ。

さぁ馬(自転車)も借りたので、いざ、出陣じゃ。

陣を巡る

笹尾山(拙者と殿の陣)にあった陣形図の案内板である。
これをグーグルマップに落とし込んでみたのが次のマップ。
名前に*印がついている陣は陣形図から推測した場所なので、ご注意あれ。

しかし、この陣形図を見る限り、毛利や長曾我部はいったい何をしておったんじゃ。
今回は時間がなかったので西軍の主な陣跡だけ訪問することに。

まずは開戦地。
霧の中、宇喜多隊と福島隊の鉄砲戦で始まった関ケ原の戦い。
西軍最大の兵力を誇る宇喜多秀家殿率いる軍勢は強かった。
拙者も最も信用していた御仁だ。
太閤様からの信頼も非常に厚かったとのこと。

こちらは秀家殿の陣跡。開戦地からは直線距離で500mほどの地点にある。
ちなみに秀家殿は関ケ原の戦いの後、島津家に逃れ、最終的にはそれもばれたが、縁戚の前田家のおかげでなんとか死は逃れたそうだ。
結果、八丈島に流されることになり、その地で果てた。

この石碑は浮田という漢字表記になっていた。
さらに南西に進むと大谷吉継殿の陣跡になる。

宇喜多秀家陣跡から大谷吉継陣跡までの間にある石碑。
平塚為広殿の碑である。
松尾山に陣を張った金吾殿(小早川秀秋)をずっと警戒し、最後まで吉継殿と戦い抜いた御仁。

こちらは大谷吉継殿の陣跡を奥にすすんだ吉継殿のお墓である。
病気の身体でありながら、最後まで采を振り続けた。
西軍の裏切りの連続に耐え切れず最期は自害なされた。
殿とは最高の友であったのだ。
ゆっくりお休みくだされ。

笹尾山へ

最後は殿(石田三成)と我が陣である、笹尾山へ。
大谷吉継殿の陣とは真反対の北東側に位置する。

笹尾山から憎き家康の最初の陣地である桃配山方向を望む。
ちょうど正面には官兵衛殿の倅(黒田長政)と幽斎殿の倅(細川忠興)が陣を構えておったわ。
まぁ拙者の猛攻には長政も苦戦しておったわな。

こちらは裏切者の金吾殿(小早川秀秋)が陣を構えた松尾山方面。
そういえば、この方向の平地に陣を構えていた島津義弘殿は最後まで動かなかった。
一説には殿の義弘殿に対する無礼な態度が原因だとも。
前日の夜襲策を採用しなかったことも原因か?えっ?拙者のせい?
この方向では、東軍の体育会系筆頭福島正則らが、秀家殿や小西行長殿らと戦いを繰り広げた。

殿の陣跡。
拙者の最期の場を用意してくださった殿に感謝。
最期まで戦いきれず申し訳ございませぬ。

拙者の陣跡。
蒲生頼郷殿とともに黒田勢に一泡吹かせてやった。
そういえば拙者、映画「関ケ原」では最期変な死に方してなかった?

拙者の陣からおよそ南東方向に200mほど行った場所に決戦地の碑がたっている。
最終的に、金吾殿の寝返りに続き、赤座、小川、朽木、脇坂の軍も寝返りおった。
吉継殿と為広殿も耐え切れず、宇喜多勢や小西勢も総崩れとなり西軍は敗北したのだ。
義弘殿はそんな中、敵中突破し伊勢街道方向に撤退し薩摩へ帰国。
その際、追撃軍大将の井伊直政殿を負傷させたが、甥の豊久殿は義弘殿の身代わりとなって討ち死に。
そんなこんなで関ケ原の戦いは約半日で幕を閉じたのであった。

関ケ原特集その3へ続く。

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