山科駅から大津宿
ラーメン屋さんの看板と、昼呑みの看板を横目に東海道を歩き続ける。
東海道道標。「大津札の辻まで一里半」と書いてある。
1里=約3.93kmらしいので、大津まで5.89kmというところだろうか?
大津ー京都間には、車石と呼ばれる石が敷かれていたらしい。
東海道が整備されてからずいぶんと時間がたった1804年に工事が行われたらしい。
13:31 徳林庵
六角堂。江戸時代の作で山科廻地蔵を安置している。
このお地蔵さまは、852年に小野篁公(おののたかむら)が木幡山の桜の大木で作った京六地蔵尊の中のひとつだそうだ。
ボーっと歩いていたら、いつの間にか大津市(滋賀県)に入っていた。
マンホールのデザインは、大津市の市章のうち、内側の波が下水の「下」の文字に置き換えられている。
撮影の向きが反対やったみたい。
小関越西追分。1822年に建立された道標。
大津までは、小関越えと逢坂の関を越える2ルートがある。
今回は逢坂の関を越える。
小関越道標を過ぎてしばらく歩くと国道1号線にぶち当たる。
幸いにも旧東海道のわかりやすいマップがあるので安心。
この先は歩道橋で国道を越えることになる。
市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにしたマンホール。
歩道橋からの眺め。車が多い。
13:48 閑栖寺(かんせいじ)
先ほどの歩道橋から約5分。閑栖寺に到着。
境内には車道が復元されているらしいので、立ち寄ってみた。
大津ー京都間は、こんな感じで物資を輸送するための道(車道)と旅人や馬が通る道(人馬道)にわかれていたそうだ。
伏見追分。「みきハ京みち」って書いてある。
写真には見えていない側に「ひだりはふしミみち」と書いてある。
伏見道は、伏見稲荷で有名な伏見を通り大阪へ抜ける道である。
参勤交代では、大名は伏見道を通っていたそうだ。
左の道しるべは、1766年(明和3年)建立の蓮如上人道標。
追分の由来。
「東海道と伏見街道の分岐点にあたり、馬子が馬を追い分けることから」だそうだ。
馬子とは、駄馬や伝馬(てんま)を引いて荷物や人を運ぶ職業の者を指す。
大津市にいると思ってたけど、なぜか滋賀県大津市に入った。
調べてみると、このあたりの旧東海道は、ちょうど京都府と滋賀県の県境に沿っている。
また山に囲まれた。車通りは多いが、歩道があるので安心して歩ける。
14:08 走井(はしりい)の一里塚跡
道標「右一里丁 左大谷町」って書いてある。
歌川広重殿の「東海道五拾三次之内 大津 走井茶店」はこのあたりの様子を描いたものである。
先ほどの一里塚近くにある月心寺は走井茶屋跡だそうだ。
疲れていたので立ち寄らなかった。ちょっと後悔。
逢坂の関が近づいてきた。
「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
百人一首の蝉丸(せみまる)の歌である。
「これがまあ、都から東国へ行く者も、都へ帰る者も、(また、)互いに知っている者も、知らない者も、ここで別れてここで出会うという、逢坂(逢う坂)の関であるなあ。」(学研全訳古語辞典より)
という感じの歌らしい。
そういえば、坊主めくりで蝉丸が出たら、全員持ち札を捨てるというルールがあったような…。
明治創業の鰻屋さんがあった。
かねよ うなぎ きんし丼 | 日本一のうなぎ 逢坂山かねよ | 滋賀県大津市 (kaneyo.in)
美味しそうだったが、この先歩くの嫌になりそうだったので食べなかった。
14:15 蝉丸神社
蝉丸が祀られている神社である。
「平安初期の歌人。伝説的人物で、宇多天皇の第八皇子敦実親王に仕えた雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともいう。盲目で琵琶に長じ、逢坂(おうさか)の関に庵を結び隠遁生活をしたと伝えられる。生没年不詳。」(精選版 日本国語大辞典より)
かなり謎多き人物である。
ちょうどヤフーにも記事が出てた。
名前は超有名だけど…小倉百人一首の「蝉丸」っていったい何者?(PHPオンライン衆知(歴史街道)) – Yahoo!ニュース
自然に囲まれた小さな神社。
お参りをして、いよいよ逢坂の関へ。
いんさつって書いてあるので、多分印刷屋さんの看板。
14:24 逢坂の関
蝉丸神社から歩いて約5分。
ついに逢坂の関に到着。
ずっと名前は聞いていたけど、どこにあるかも知らなかった逢坂の関。
こんなとこにあったのか。
逢坂の関(逢坂山)に関する百人一首が石に彫られていた。
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 (蝉丸)
「これがまあ、都から東国へ行く者も、都へ帰る者も、(また、)互いに知っている者も、知らない者も、ここで別れてここで出会うという、逢坂(逢う坂)の関であるなあ。」(学研全訳古語辞典より)
名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな (三条右大臣)
「逢坂山が「逢(あ)ふ」という名を負っているなら、「さ寝(ね)」ということばにも通じる逢坂山のさねかづらのつるをたぐるように、人に知られずにあなたのもとに来る方法があればよいなあ。」(学研全訳古語辞典より)
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は ゆるさじ (清少納言)
「 まだ夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねをしてだまそうとしても、(中国の故事にあった函谷関(かんこくかん)なら開きましょうが、)逢坂の関は決して開かないでしょう。(うまいことをおっしゃっても、私はあなたに逢(あ)うことはありますまい。)」(学研全訳古語辞典より)
逢坂の関に関する百人一首が意外とあって驚いた。
トイレもあってベンチもある。説明書きの看板もあった。
さぁ大津宿まであと一息。
国道1号線沿いの歩道を歩いていく。
1794年(寛政6年)建立の逢坂常夜灯。
すぐそこには弘法大師堂がある。
京阪電車が右手側に走っている。
14:40 旧逢坂山隧道(ずいどう)東口跡地
なにやら気になるものが。
トンネル?
日本人の技術者、技能者が主体となって設計、竣工をおこなった日本初の山岳ずい道だそうだ。
結構すごいトンネルやった。生野銀山の労働者が手掘りで掘りぬいたらしい。
時の太政大臣・三条実朝の字。「楽成頼功」
落成(土木建築の工事ができあがること。)だと縁起が悪いから、楽成となっているらしい。
明治時代の日本人の技術に感心しながら、いよいよ旅は大詰め。
逢坂という名の由来は「日本書紀」からきているらしい。
「神武皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来する」と説明書きがある。
ふむふむ。
14:53 大津宿 大坂屋本陣(大塚本陣)跡
ついに到着。大津宿大阪屋本陣(大塚本陣)跡。
明治天皇が休憩所として利用されたことを示すのがこの石碑である。
本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設のこと。
残念ながら遺構は残っていない。
札の辻跡。足元を注意しとかないと絶対にわからない。
札の辻とは、街道や宿場町など往来の多い場所に高札を立てた道・辻(十字路)のこと。
本陣跡と札の辻の中間地点で見つけたカフェ。
とにかく疲れたのもあるし、何よりゆっくり座りたかったので立ち寄ってみた。
チーズケーキとコーヒーをいただいた。
カレーとかもあってかなり迷ったが…。
コーヒーで体も温まり、体力回復。
(次ページへ続く 【おまけの大津城攻め】)
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